

新思潮 No.123 2013年11月号①
婆の手に戻ると回る風車 | 大谷晋一郎 |
<細川不凍鑑賞> おのれの足元を凝視すると共に、そこから拡がる郷土に他念なく視線を走らせる作者である。「婆」は晋一郎さんの風土川柳の象徴的存在で、生まれ育った土地を慈しむ念いの籠められた言葉でもある。 揚句からは、子、孫、曾孫、玄孫ばかりでなく、父祖の魂たちも加わった車座の中で、にっこりする婆様のなんとも愛らしい姿が見えてくる。次々と手渡され、最後に届けられた婆様の手の中で「風車」はやさしく唄うように回り始めるのだ。物象(婆・風車)から心象(地縁や血縁の展がり)へのたおやかなふくらみを持つ佳品だ。 <寺田靖鑑賞> この作家は、望郷と言おうか、郷愁と言おうか、とにかく一貫したテーマで作品を紡ぎ出している。もちろん、ひとつひとつの作品はそれぞれに独立したうつくしさを持っているが、最終的には作家にとっての「大きな木」に結びつく。作品の中にたびたび登場する婆の存在―。 いっしょに暮らしていた母方の祖母が亡くなったのは僕が十七歳の時だった。大きくなると少々疎ましく思った事もあったが、小さな頃はおばあちゃん子だったのだ。婆の手に戻った風車はきっとよく回ったことだろう。 |
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綾取りの梯子を登る月の影 | 蕪木奈嫁 |
その昔の綾取りの様子を思い出したかのような作品。それは確かに〝月〟の妖しさがそうさせたものだろう。月の妖しさの演出で、綾取りの様子が浮び、やがて月と一体化して、綾取りで出来た梯子を月が登ってゆく、一つの童話になっている。夢のような梯子を月が登ってゆくイメージが美しい。 〈岡田俊介〉 | |
赤き月 秋の輪廻を捨て切れず | 山内 洋 |
作家が捨て切れない「秋の輪廻」が「赤き月」の表現に見事にマッチして重層的な抒情感を作り上げている。勝手な想像だが、この作品は作家の中で一瞬にして出来た作品ではなかろうか。長い熟成期間を経て、すべてを包括し、完成したかたちとして。 〈寺田靖〉 | |
甘き風 私を「アミ」という晩夏 | 斎藤 漣 |
秋が近づくと風がやさしくなってくる。フランス語のアミは友人、恋人の意味だそうだが、この句の場合、恋人がふさわしいだろう。風が耳元でアミと囁いて通りすぎたという一瞬の幻想を句にしたためた。普通、風は孤独感を誘うものだが、この句では反対に甘い囁きに聴こえたのだ。〝晩夏〟という季節の変わり目にだけ聴こえる甘い囁きなのだ。外国語を効果的に使った作品で、もっと聴きたいと耳を澄ます作者が見えるようだ。 〈岡田俊介〉 | |
大空を愛し大地を抱く樹影 | 岩崎眞里子 |
始まりは白い「ん」でした萩問答 | 岩崎眞里子 |
自然を身近にとらえ、擬人的に扱うのは岩崎の特技のひとつであろう。「大空」の句では、〝樹〟を擬人的に扱う。〝樹影〟としたところで、影だけが樹とは別の存在のようにとらえられ、それが、大空と大地に溶け合っているのだ。すなわち〝影〟の働きで、樹と空と地が溶け合っている。この〝影〟の扱いが新鮮だ。 「始まり」の句は、岩崎らしいウイットに富んでいる。「ん」が特徴的な使われ方をしているのに誰しも気付くであろう。それが岩崎のウイットでもあり、発見でもあるのだ。萩の方から、その白い花が「ん」と作者に話しかけてくる。多分、〝幸せ〟かと。 〈岡田俊介〉 |
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葉桜よ手にもふしぎな手があって | 寺田 靖 |
人影を待つあじさいの無人駅 | 伊藤寿子 |
蝉しぐれ啼いて亡びる蝉しぐれ | 瀧澤良子 |
月光をつまびく秋に慣れるまで | 西田雅子 |
怒り肩なのでゆっくり花すすき | 吉田州花 |
月下巡礼 見えざるものと終夜(よもすがら) | 杉山夕祈 |
豊かさの中なる欠如 ソクラテス | 鮎貝竹生 |
青きトマト赫くなるまで 波幾重 | 西条眞紀 |
おちるためのぼってゆきぬ夏の蝶 | 矢本大雪 |
影絵わく声ころしてもころしても | 酒谷愛郷 |
身の内の赤い花から枯れ急ぐ | 松村華菜 |
人々の後を歩いている緑 | 岡田俊介 |
骨つぼに落ち葉のように集められ | 大河原タミ子 |
ゆっくりと私に戻る秋は紫 | 月野しずく |
☆ NO.123の読みもののご案内
・エッセイ「わが柳誌逍遥Ⅰ」 矢本大雪
・随筆「山椒の木」 吉見恵子
・句集鑑賞「『若葉の句集Ⅲ』からの風」 姫乃彩愛
・高橋古啓作品「手帖の中」について
・「貴女はいまどこに」―前田芙巳代選出76句と解説
・随筆「銀の滴降る降るまわりに」 松田ていこ
・エッセイ「わが柳誌逍遥Ⅰ」 矢本大雪
・随筆「山椒の木」 吉見恵子
・句集鑑賞「『若葉の句集Ⅲ』からの風」 姫乃彩愛
・高橋古啓作品「手帖の中」について
・「貴女はいまどこに」―前田芙巳代選出76句と解説
・随筆「銀の滴降る降るまわりに」 松田ていこ
2013.11.17