

新思潮 No.129 2014年11月号より②
追憶の界幾千を飛び鳥は | 桂 由輝花 |
桂由輝花は暗喩を鋭く用いて陰影に富む作品を書く。 幾千の世界を飛び越えてゆくという喩えが、追憶というものの奥深さを見せている。幾千の世界の中には幽冥の世界もあるだろう。そこに漸く辿りついて、確かめてみたい、過去の情景があるのだろうか。夢想の世界をさまようのを〝鳥〟に喩えて、作品の中を羽ばたかせている。〈岡田俊介〉 | |
青き夜 窓に船待つ母子抒情 | 桂 由輝花 |
月光の夜の青い幻想の中にいる母の姿が思われる。月光の青を渡ってゆく船を待つかのように、窓辺に佇つ母の感情も青に染まっているのだ。思いの深いところからの発想が、豊潤な香りを放っている。〈岡田俊介〉 | |
夕映えの名残りを被りうずくまる | 吉田浪 |
天の夕映えと自らの夕映えが重なり美しい作品となった。齢をかさねた人ならではの深い真実のあじわいがする。〈松田ていこ〉 | |
紅茶に写る秋のひと日の澄みきって | 細谷美州子 |
秋の一日に紅茶を楽しむ様子を詠むものだが、紅茶に秋が写っているという着想が新鮮だ。秋の澄みきった空気が伝わってくるような表現を得ている。とくに紅茶の紅に写る秋のイメージが美しく、紅茶に写るものが例え空気であっても美しい。澄み切った空気と紅茶の澄んだ色が呼応している。こういう感覚は大切にしていきたい。〈岡田俊介〉 | |
銀河から帰り 家族のロゼワイン | 岡田俊介 |
幻想的でエレガンス匂う家族団欒の作品は、暖かな透明感にみち作者らしさに溢れている。作品の中で家族の姿がやさしく匂い立ち、みつめる作者のまなざしも微笑えんでいるような気がする。〈松田ていこ〉 | |
風の音拾い集めてまだ未完 | 元永宣子 |
「例えどのような形でも、赤々と燃焼する命ほど美しいものは無い」と仰った片柳哲郎先生の言葉が思い出される。作者は「まだ未完」であるが故の熱い風の音を抱き今は佇むしか無いのである。
西郷かの女さんが八十代半ばにして書かれた作品に「いつまでもいつまでも未完の絵を飾る」の作品が有り、その清々としたものに打たれずには居られないが、かの女さんと元永さんの「未完」は長い時間を間に大きな意味の違いが有る。 一連の作品には作者の優しいお人柄と共に、命の完全燃焼への切実な気持ちが滲んでおり、一つ一つ拾い集めた「風の音」こそ完全燃焼される日をじっと待っている。〈松田ていこ〉 | |
緋を纏う 自分史終章更えたくて | 梅村暦郎 |
緋を纏い、颯爽としたところが粋な作品だ。人生の最終章を少しでも輝かせるために着る色は〝緋色〟しかあるまい。緋色を纏って、その間だけでも、若い頃のように輝く男の姿が見えるようだ。これも老境のはかなさを詠む作品にちがいない。〈岡田俊介〉 | |
乙女の日流れるごとし萩青く | 斎藤 漣 |
乙女の日々をなつかしむ心情を表す語として〝萩青く〟を用いた。〝流れるごとし〟は、もちろん、はかなくもある歳月の速さを表したものだ。〝萩青く〟の心情が秋に広がってゆく。紅い花をつける前の萩の感触が、乙女の日々と重なるのであろうか。はかなく美しい作品だ。〈岡田俊介〉 | |
ウインドウに映える幻視のひとりとして | 新井笑葉 |
街角のきらめきの中のわが身を捕えた作品。街を飾るウインドウにわが影が映っても映らなくても、自身では華やぐ自分の影を見ているのだ。幻視のひとりとして、きらめく街を行く自分がいる。たとえ角度を変えてみると消える幻影であっても、一瞬の存在感を確かめているのだろう。〈岡田俊介〉 | |
死者も夏衣ゆめまぼろしを語り合う | みとせりつ子 |
人を恋う蛍の宿は薄明り | 蕪木奈嫁 |
きみ匂ふ勿忘草の花かげに | 松田ていこ |
くぐもればくぐもる程の夕ごころ | 佐藤純一 |
モノクロの砂漠に描く朱い月 | 越智ひろ子 |
哲学がありドーナツに穴があり | 中嶋ひろむ |
別々に染まる真っ赤に染まる秋 | 潮田 夕 |
ずぶ濡れの衣装で返る笛太鼓 | 村上秋善 |
氷のヒール溶けぬまま TOKYO | 姫乃彩愛 |
花は花は花は真赤に原爆忌 | 濱田玲郎 |
茄子の馬コトリあの世は遠いとこ | 松村華菜 |
柿青む水売りの町塩の街 | 北山 茂 |
影絵なる三日三晩を踊りつつ | 望月幸子 |
身籠もるや塩辛トンボ赤トンボ | 高橋 蘭 |
2014.12.14