新思潮 No.130 2015年1月号より①
一番小さな時間(とき)の果実を捥ぎ取れば 吉見 恵子
 「一番小さな時間」は作者の想念が濃密に籠められたかけがえのない時間なのであろう。しかし、「果実」はそのままにしておいては、単な る飾り物に過ぎない。自分にとって大切だと思えば思えるほど、それを捥ぎ取ってわが物にしたくなるのは人情と云うもの。
 神の戒めに従わず、知恵の実を味 わったアダムが想起される。表現者にとっては、果実を捥ぎ取るのは、掌中の珠を得るための表現行為に相当するかも知れない。〈細川不凍〉
葦原を無数の見えぬ手が揺らす 矢本 大雪
 おどろおどろしい霊気の世界を展げる「無数の見えぬ手」は、未だ成仏できぬさ迷える魂たちの手であろう。彼らが苦悶の表情を浮かべながら、お釈迦様に救済を求めて、葦原を揺らしているのだ。普段は見慣れた光景も、じっと目を凝らすことで、思いがけない詩空間が広がることがある。
 可視のものと不可視のものが織り成す空間だ。掲出句は、それを機敏に捉えて、過不足なく描出している。リアルな感覚の冴えた〈うしろより押し寄せてくる秋の暮〉の句、そして心象の遠心性が鮮やかな〈蟷螂が斧振りかぶる皆既月食〉の句も秀抜で、表現者の精神性の高さを見た。〈細川不凍〉
生き恥は雪の鏡にオイディプスの眼 桂 由輝花
 この句はギリシャ神話のオイディプスを登場させて複雑な情感を詠っている。〝雪の鏡〟は一種の幻である。冷たく、しかも自身や周辺をよく反射する想像上の鏡で、雪の中に転がる鏡でも、雪しか映さない鏡を想像してもよい。父を殺して母と結婚したというオイディプスの喩えが、雪の光を複雑で妖しさのある光に変えているようだ。雪の鏡に妖しく光る眼が想像できて、冷たく、異質の感覚が残る作品だ。〈岡田俊介〉
雨傘の人は繪だった 消印は夏 寺田  靖
 少し構成に変化を持たせた。かつて見かけた雨傘の人は結局、繪の中の人だったと後になって気付いたという。現実の情景が繪の中に入り込み、そこに定着したかのように詠んでいる。普通は繪の中の人が、現実世界に出てくるという発想をするが、ここでは逆の発想をしている。
〝消印は夏〟の部分にも一工夫が見られ、夏の雨傘の人を暗示しているし、この繪も絵ハガキの絵であることを暗示する。夏も遠くなった秋の絵ハガキから夏の人を思い出している構図である。〈岡田俊介〉
真水に浮かべて沈めてすこしカフカ的 澤野優美子
 「真水に」の句も、真水に何を浮かべるかは不問にして、〝カフカ的〟という味付けを楽しみたい。真水の神聖さに、不条理の世界を描くカフカの作品を対峙させているのだ。作者が新しい作品へのアプローチを始めたかのようだ。〈岡田俊介〉
紅が折れ漏れ出づる冬語り 谷沢けい子
 口紅が折れるという表現は、わびしい象徴として用いたものであろう。実際に折れたとしても、わびしさに変わりなく、その紅を塗るべき口から漏れるのは〝冬語り〟ばかりなのだ。来る冬に一層わびしい気持ちが顕著になってゆく様子がうかがえる。〈岡田俊介〉
雷雲のその一族の大銀杏 夕刻 閉門
 大銀杏の黄葉は気が遠くなるほど壮大だ。それを雷雲と相通ずるものと見立てたところが痛快な作品。どちらも大きく圧倒的な力を持つ非日常の姿がそう思わせるのだろう。新しい言葉の配合を試みても、なかなか成功しないものだが、この句では大銀杏と雷雲が互いに惹き合い、共鳴している。〈岡田俊介〉
明日は何色 帽子をかける三日月(クレセント) 月野しずく
たとえばの小窓に止まるうさぎ月 岩崎眞里子
だまっていては何も興こらぬ餅ふくらむ 酒谷 愛郷
夕焼けに少し近づく黴くさく 潮田  夕
山高き街にただよう水硝子 岡田俊介
風受けて風の渇きを知る枯れ葉 大橋あけみ
歯並びもきれいに墓標林立す 新井 笑葉
冬ざれの幹からみあうとき無音 高橋  蘭
かねてかく在りたき香に導かれ 松井 文子
夜会への靴音だけが真実で 山崎夫美子
台風一過そそと言の葉あつまりぬ 細川不凍
風の絵と透けるホスピス棟の朝 越智ひろ子
紅茶色の月 神さまはもう眠い 伊藤寿子
風光り胸の高さに降りてくる 元永宣子
☆ NO.130の読みもののご案内
 ・エッセイ「週末菜園」 古谷恭一
 ・随筆「春の訪れ」 伊藤寿子
 ・青森吟行作品 H26.10.19    ※青森吟行作品は次回ご紹介します。
 ・「秋の津軽 吟行記」 岩崎眞里子
 ・随筆「辞書と遊ぶ」 鮎貝竹生


2015.1. 18

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