新思潮 No.138 2016年5月号②
〈テープ起こし:山崎夫美子〉
-奈良研修句会(2015年10月10日) 1――作者未知の時点で―

合評会司会・寺田 靖

(靖)それでは私の方で司会をさせていただきます。事前に互選による5句選出、うち1 句は秀句指定でお願いしました。秀句は2点、佳作は1点とした合点で、高得点の作品か ら進めたいと思います。
   ※秀句推薦者  ・佳作推薦者
牛買いが来る日僕も月もひとり寿 界
※むねお・孝志・雅子・あかり・嬉久子・桐子・眞里子・恵美子・彰
(むねお)大袈裟なようですが、ひとりの男の人生を感じて、その気持ちが伝わってきた んです。売るために飼っていた牛を手放すのは辛いものがあります。月をもってきたこと で作品が生きているし、月をもってきたことで皆さんの気持ちをくすぐるようなところも 感じられました。愛を込めて育てた牛を手放す日が来たという思いと、淡い満月が照らす なか無性にひとりでいたい、じっと耐えている。そんな男の姿をよくよく見れば、名残り の月も我がことのように寂しげに見つめているではないかと。人との別れ、悲しさに境界 はないという気持ちで選びました。
 
(靖)気持ちをくすぐるという発言、大事なことですね。
 
(彰)この句から「ドナドナ」という歌を思い出して、月がいつ出ているか気になりまし た。夜に牛買いが来るのかなと、むしろ昼の月みたいにぼんやりとして儚げな月の方が似 合うかなと思って、昼の月と解釈しました。字づらはよく分かる句ですが、牛買いは人買 いだったらどうかと思ったんです。自分の娘が嫁に行くというのを結びつけて、親父の哀 しみというのは考えすぎかもしれませんが、似たような思いがあるかと思いました。
 
(桐子)最初にむねおさんがおっしゃったように、牛買いが来る日で僕の心情というのは 伝わってくると思います。乗り越えるしかない哀しみ、寂しさに、静かに寄り添ってくれ ている月を感じていることにホッとするような気持ちになりました。私も月のようにただ 作者の心情に寄り添いました。この句は言葉にしないほうが伝わる情感が詠まれている一 句だと感じました。
 
(雅子)やはり牛買いという言葉だけで、この句全体のイメージが出来ているかなと思い ました。丹精込めて育てた牛を、生計を立てるため売らなくてはいけないという心情、僕 も月もひとりというところで、僕と月を同格化している。そして、月もひとりと擬人化し ていることで、月がいつもひとりで運命的なものを静かに受け入れるのと同じように、僕 もその日を静かに受け止めるという、何か運命を達観した孤独感みたいなものが感じられ ましたので選びました。
 
(靖)先ほど「ドナドナ」の歌を思い出したとおっしゃっていましたが、私もあの歌を思 い出しました。人生の寂しさが感じられた句であったと思います、採られなかった方のご 意見も、寛哉さんお願いします。
 
(寛哉)4人の方が発言されてなるほど、そういうふうに受けとめるのかと思いましたが 、この句は情緒的なんですね。月もひとりとはどういうことかと、クエッションマークば かりで点数を入れることができなかったです。
 
(作者)テレビで牛買いが牛を買いにいくという場面があったんです。中学生が牛の世話 をしていて、その少年にスポットを当てたテレビで、牛買いが去って行く時に、涙を流し ながら寂しそうな表情をしていたのが印象的だったので出来た句です。
 
きのうまで名前のあった洗面器文 音
※眞里子※本多洋子※彰・孝志・靖・典子・ひでお (岩崎眞里子)つい最近旅立った人が使っていた洗面器。でもこれってどうして箸・茶碗 、靴・帽子でなくて洗面器なんだろうということに立ち止まってしまいました。すぐに思 いつく用品ではなくて、敢えて洗面器のようなものにしたというのは、片付け忘れてしま ったものなのか。その辺にごろごろあって、つい昨日逝ったかのような感じではあるけれ ど、本当は昨日ではなくて、ずっと前だったりして。何年経っても別れた日というのは、 つい昨日のように思われるという心情と重ねて、自分の中で洗面器を無理無理に納得させ たんですが、洗面器をもってこられたところに、参ったという感じがあります。
 
(本多洋子)初めに読んだ時、洗面器に何故昨日まで名前があったのかとふと思い、胸に ジーンと来てしまいました。洗面器というのは日常生活に切っても切り離せない物ですし 、その近くには歯ブラシもコップもみんな置いてあると思います。それが昨日まで名前が あって、今日からは名前がないということは、それを使っていた人が亡くなったか、いな くなった。いろいろなドラマがあって、その人と別れたのかもしれないです。昨日まで身 近に感じていた洗面器、その人がいなくなったという孤独感と寂しさが胸にきました。そ れは私の体験からかもしれません。23年前に急に主人を亡くして、そのあくる日から何を 見ても、顔に当たる風をみても虚しいばかりだったんです。この句を読んで悲しさがまた 蘇えってきて、胸がつまる思いをしたので秀句にいただきました。
 
(ひでお)私はこの句から存在の悲しさみたいなものを感じました。私も4年前までは仕 事をしていて、定年で離れたわけですが、それまでは組織の中で名前をいただいて、次の 日はその名前が無くなっている。そんなふうにして人というのは生々流転していくのかな というようなことをこの句から感じました。
 
(靖)私は単純に「やられた」という感じでした。洗面器に名前なんて、全く今まで考え たことがなかったので、それを句にしてこられたのがすごく衝撃でした。
 
(孝志)取りとめのない洗面器に名前があったことに気がついた。その洗面器は太郎だか 次郎だか知らないけれど、言葉の流れに無理がないところ、洗面器に名前という作者の感 性が凄いと思いました。こういう句にあまり慣れていないのですが、亡くなった方、引退 した方の名前、立場での読み方もあったと思いますが、自分はこの人の感性で入れました 。
 
(靖)選んでおられない方で、大楠紀子さんどうでしょうか。
 
(紀子)最初はいい句だと思って採ろうとしたのですが、どうしても最後の洗面器が、私 の感性と合わなかったので採りませんでした。でも、「昨日まで名前のあった」は凄く魅 力的なフレーズだと思います。
 
(作者)こういう席で自分の句の説明をするのは苦手なんですが、私は今、老人施設で仕 事をしていまして、洗面器だけでなく、箸にも何にでも名前がついているわけです。亡く なったときに、身の回りの歯ブラシや箸とかはご家族が引き取っていかれますが、何故だ か洗面器などは「お使いください」と残されていくことが多いです。昨日まで名前のあっ た洗面器の名前を消して、何かに使うというふうな日頃を見ていますと、切ない感じがし ます。昨日まで名前があったのにというその人の想いと、私達がお世話をしている想いと がどこかで噛み合わない部分もあると思いながら、日常あったことを句にしてみました。
 

2016.5.16

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