新思潮 No.140 2016年9月号より②
佇めば山河の秋よ亡友(とも)醂す山内  洋
余情を重要視する詩性派の作者であれば、〈亡友醂す山河の秋に佇めば〉と表出するのが通例だ。掲出句にあっては、作者は自然な意識の流れに随いつつ、表現意識を高めていったと想われる。 郷土の地を散策した際、ふっと歩みを止めた処から、作者の追想は始まった。そして、その懐旧の念を確かなものにしたのが「亡友」の存在だ。「醂す」は調べてみると、①柿の実の渋を抜く、②水に浸してさらす、③黒漆で光沢のないように塗る等の意味があるが、ここは①が相応しい。柿の甘みが「山河の秋」を豊かにしてくれるからだ。老境にある作者の思郷の念の深まりが、清澄な詩境へと穏やかに昇華された結果の、美的所産の作品である。〈細川不凍〉
美しい蝸室だきっと魔女が棲む 潮田  夕
〝蝸室〟は蝸牛の殻のような小さな家をいうが、この句の場合、蝸牛の殻そのものを思った方が飛躍するように思う。蝸牛の殻から魔女を想像して童話を創出した。蝸牛の殻の神秘性が窺えるし、そこに魔女を想像する想像力の豊かさを思うばかりだ。意欲的に新しい表現に挑戦する作者だ。〈岡田俊介〉
時計草太古の受難秘めており鮎貝 竹生
「時計草」という花が存在することを知らなかった。調べてみると、正に時計の文字盤のような花であり、よく見ると十字架の形とも取れるその花は、昔キリスト教の布教に利用された時代があったという。キリスト教とはいえ天然の花の命が人間に利用されたのかと思えば、時計草が憐れである。〈松田ていこ〉
逝く順の狂わぬように花の歳時記谷沢けい子
花の逝く順は狂いなくやってくる。さくらの次がハナミズキ、次にバラ、バラの次が紫陽花と。咲く順とせず、ことさら逝く順としたところに作者の心情を反映させた。もちろん人の逝く順を連想しているのだ。思考が暗い方へと旋回する年齢なのだろうか。〈岡田俊介〉
夕顔や婆へ裏木戸開けておき 大谷晋一郎
夕の淵 白寿の婆が来て座る 大谷晋一郎
誰の比喩かは判らないが、幻の婆を書いた作品群だ。「夕顔や」の句では、夕方に咲く白い花からの連想で、夕方にくるに違いない婆の幻のために裏木戸を開けておくという。夕顔の白い花も婆もおぼろであり、その白い花が婆への敬意を暗示している。  「夕の淵」の句は、夕が深まったところで、現れるであろう婆を想像したもので、その婆も白寿になった婆であり、ここでも婆への敬意が秘められている。かつての身近な存在の婆を思い出してはその幻を自身の世界に出現させているのだ。〈岡田俊介〉
軍鶏よりも絶望的な目を開き 古谷恭一
頬杖をつくサルビアが炎ゆるから 姫乃彩愛
風を砕いて風より重くなる哀歌 板東弘子
月光を浴びて二本の腕がある  寺田 靖
押し花の栞にたたむ午前二時 山辺和子
蝶道に一翅(し)を乞えば羽化はじまる 杉山夕祈
梟の目になる妻の腕まくり福井陽雪
孫二人弾みはずんで月の中細谷美州子
ファザーコンプレックス少女はみずならの樹陰伊藤寿子
眠っている すこしはなれている尻尾中嶋ひろむ
2016.10.22

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