

新思潮 No.143 2017年3月号より②
魚にも鳥にもなって行書体 | 古俣 麻子 |
点画をくずさぬ楷書体と、点画をくずした流動性に富む草書体の中間にあって、実用性 と芸術性を兼ね備えているのが行書体だ。その特性を活かす作者持ち前の明るい意思が、 「魚にも鳥にもなって」というアクセントの効いたフレーズを引き寄せたのだ。凛とした 明瞭なメタファーが読む者の心に快的にヒットする。〈細川不凍〉 | |
訪ね来る人あり森にこだま生まれ | 伊藤 寿子 |
森にこだまが生まれ、一種の活気が生まれるのは、訪ねて来る人ゆえのことで、こころ の動きがそう感じさせるのだ。人を待つ心境を詠む作品で、森さえも活気づき、こだまが 飛び交うのだ。〈岡田俊介〉 | |
草笛を唇に薄らぐ夕の集村(むら) | 大谷晋一郎 |
草笛を唇に当てて、その情景に沈み込んでゆく作者像だ。草笛を鳴らせば鳴らすほど、 情景は薄らぎ、その集村が揺らいでくる。過去の村かも知れないその村を集村というとき 、家々が点在する様子さえ見えてくる。草笛から見える幻想の一つであろう。その幻想の なかに作者も沈んでいるのだ。〈岡田俊介〉 | |
どんこ舟桃が流れて行くような | 山下 華子 |
聞きなれぬ〝どんこ舟〟を調べると、柳川の川下りの舟をいうそうで、昨秋乗ったばか りの舟だった。それにしても、どこか長閑な光景を思い起こさせる言葉だ。この舟の様子 が〝桃が流れて行くような〟というところに、ゆったりとし、のんびりした風景が広がっ ていて、春をも予感させている。〝どんこ舟〟を上手く使った作品だ。〈岡田俊介〉 | |
息つぎをしてから誰もいない森 | 山崎夫美子 |
鎮守の森に限らず、多くの森にはどこかに社や祠があって、そこが森の入り口になって いたりする。山の中腹に鳥居があって、そこまで長い石段を上ってゆくこともある。息継 ぎをするほどの道は、そんな急な石段や杣道だろう。普段は境内も人気がなく、鬱蒼とし た森の中へも、ハイキングする人以外そう分け入らない。一人で行くには勇気のいる場所 である。息せき切って森の入り口までやって来たが、人を寄せ付けない森の不気味さ、神 聖さに思わず怯んでしまったものか。〈古谷恭一〉 | |
たれしるや喉(のんど)のおくの冬桜 | 松田ていこ |
夢見草 哀しく迫る無常観 | 元永 宣子 |
路地裏の桜の生涯だとしても | 細川 不凍 |
一月中旬、近くの牧野植物園を散歩。さすがに冬枯れ状態だが、歩道沿いの林内に濃紅 色の花をいっぱい咲かせた桜の木を見つけた。名札を見ると「リュウキュウカンヒザクラ 」。別の木は、白い桜で「ジュウガツザクラ」。これらは冬桜の一種であろうと、健気に 咲く花弁を見上げたものである。桜は、人の心映えや生き様にも譬えられるが、殊に冬桜 は孤独で峻厳。不凍さんの桜は、人目に着かない場所に咲く淋しい桜だが、それだけに清 雅で高潔。武者小路実篤の「人見るもよし、人見ざるもよし、我は咲く也」の讃にも通じ よう。〈古谷恭一〉 | |
春の話ぷりんぷるんとほほえんで | 月野しずく |
姉の椅子置く母が残した陽溜まりに | みとせりつ子 |
花鋏震える首は落とせまい | 松村 華菜 |
残月光 爪先白く死者日和 | 山内 洋 |
濡れ羽色の烏の羽で闇を織り | 吉見 恵子 |
地球儀をがんじがらめに蔦が巻き | 古谷 恭一 |
滅私奉公小さな星の片隅で | 重田 和子 |
潮引いて書厨の中は陽のいろに | 福田 文音 |
実南天鳥と羽ばたく時を待つ | 野邊富優葉 |
幸せの欠片を拾う銀スプーン | 山辺 和子 |
2017.4.18