

新思潮 No.146 2017年9月号より②
この街で生きたつゆ草芽を吹いた | 吉田 州花 |
朝露に濡れながら咲く露草は日が高くなるとたちまち萎んでしまう。古くは月草、鴨頭草と書かれていたようだ。鴨頭草は青い花びらからだととうなずくが、月草は暗いうちから月光を浴びて咲くからという説と色が付きやすいからという説がある。万葉集から三首挙げてみる。【朝咲き夕べは消ぬる鴨頭草の消ぬる恋も吾はするかも】【月草に借れる命にある人をいかに知りてか後に逢わむと言ふ】【月草に衣色どり摺らねどもうつろふ色と言ふが苦しき】いずれも移ろいやすい想いや儚さを詠っている。州花さんの句にはこの街でずっと生きてきた感慨が詠まれている。しかし儚さを嘆いてはいない。一年草である露草を「芽を吹いた」とすることで繰り返す年月を大切にしていることも、街への愛着も見えてくる。これからも季節の花を愛でつつ同じ街で生きていくのだろう。〈古俣麻子〉 | |
韜晦(とうかい)を跨ぐ大暑の替ズボン | 山内 洋 |
「韜晦とは自分の才能・地位などをつつみかくすこと」とあえて辞書を引用させてもらえば、この句の表現の巧みさ、面白さがより理解できるだろう。「大暑」が汗ばむほどの苦労や疲労を際立たせることに導き、替ズボンが時間の長さまでも伝えてくる。〈古俣麻子〉 | |
入社通知書頂く両手(もろて)に紋白蝶も | 西条 眞紀 |
余情のある句を作るには半具象半抽象でとよく聞く。しかし五分五分ではなく七、三か八、二くらいの割合がいちばん面白いものができると亡き関水華先生から教えられた。その意味でこの句は模範的だと思う。「入社通知いただく両手に」までの具体的描写を一転させるように紋白蝶が舞い上がる。紋白蝶は数を増し、やがて祝福の紙吹雪に変わっていく。「いただく」という措辞がおおきな力を発揮して一句を成しているのだ。〈古俣麻子〉 | |
空に手置き忘れ盆踊り消ゆ | 酒谷 愛郷 |
盆踊りの賑やかさを、空まで手が伸びるように詠んでいる。その手は空に浮かんだまま、盆踊りが消えてしまっても残っているのだ。祭が終ったのかもしれないし、村が寂れたのかもしれない。空に忘れられた手のみが、その痕跡であろう。盆踊りの賑やかさ、儚さをこのように詠んだ。〈岡田俊介〉 | |
蜘蛛の巣の数珠つなぎに盆は来ぬ | 細川 不凍 |
「数珠つなぎ」から雨上がりの美しい蜘蛛の巣が目に浮かんだ。無数の水滴は水晶の数珠のようだ。水の球体に目を凝らせばひとつひとつに空や緑、光や空気感までも映し出されている。見惚れて覗き込む者を閉じ込めてしまったかのように見える水滴は放射線状に広がっているが、そうはどっこい数珠つなぎに盂蘭盆会に迎え入れられてなるものか。瑞々しい生命感が光に揺れている。〈古俣麻子〉 | |
象の雲その目になろう素足かな | 潮田 夕 |
象のように大きな〝雲〟なのだろう。その象の目すなわち雲の目として自らが存在する、その証としての〝素足〟なのだ。纏うもののない純な素足で、象の目に応えてでもいるようだ。象の目になるための方法としての素足であり、非日常の世界へ行くためのものでもある。夏の風景を捉えて、新しい触感の残る作品に仕立てた。〈岡田俊介〉 | |
銀蠅のもう群がっている神話 | 古谷 恭一 |
ブランコの揺れの果てなる逃亡者 | 吉見 恵子 |
低く飛ぶニセアカシアの花の下 | 杉山 夕祈 |
葉書届かぬ陸ガメゆっくり顔上げる | 姫乃 彩愛 |
夏色の空 梵鐘を乱打する | 元永 宣子 |
夕立の音含みゆく泡ガラス | 小林ひろ子 |
日時計が止まり眠たきもの多し | 新井 笑葉 |
蜘蛛の巣をクリア地下鉄地上駅 | 松井 文子 |
下り坂せめても肩を怒らせて | 青野みのる |
過去を歩く点々と笑い話 | 佐々木彩乃 |
目をつむるセロ弾き我もまたつむる | 前川 和朗 |
ひと雨ごとに時の扉を押し広げ | 秋田あかり |
2017.10.18