

琳琅 No.164 2020年9月号より②
追い越してゆくのは時と言う飛脚 | 氈受 彰 |
印象的な言葉を駆使して、独特な面白い一句に仕立てる作者である。この「時と言う飛脚」の表現は、新幹線のような速さではなく、「飛脚」という江戸時代における、時速約八キロで信書や小荷物などを運んだ時の速さなのである。飛脚という言葉は、老後の緩やかな時間の流れを意識して選択されたものと思われるが、その流れにさえ、今は追い越されてゆくようだと嘆いている。恐らく、コロナ禍のスティホーム所以であり、思うように時を進め得ない現実の嘆きであろうか。〈吉見恵子〉 | |
霧の世をともすマロニエ絵蝋燭 | 吉見 恵子 |
マロニエと聞くとフランスの並木を想像するが、トチノキのことだ。私の住んでいる所にも高い樹木となって街路樹の一種になり空まで届くほどに見上げる。現在はコロナウイルスの世の中にあり、先が全然見えない霧の中と作者は感じている。そんな世の中をきれいな絵かざりの蝋燭に火を灯して照らすと、一瞬でも明るくなり心も晴れると言うのだ。模索ばかりの中で払拭しようとする思いに同感する。〈伊藤寿子〉 | |
影だけが泣いているね林檎剥く | 姫乃 彩愛 |
林檎を剥く行為は、誰か相手が向こう側にいる様に思う。小さい子か哀しみの中にいる人か、その誰かに向けて静かにきれいに、ひたすら剥くことだけを考えている愛情を感じる。剥いた林檎をその手に渡した時、やさしい笑顔になって、ありがとうと受け取るに違いない。〈伊藤寿子〉 | |
野薊の白弔いの白い呼吸(いき) | 天野 唯子 |
「弔いの白い呼吸」は発見である。弔いの息遣いが伝わってくる。「野薊の白」と弔いの「白い呼吸」の白が響き合い、哀しみや鎮魂の想いが静かに漂う。弔いの日の傍らに、白い野薊が咲いていたのだろう。〈吉見恵子〉 | |
黒葡萄こころの甘さ読まれたり | 福田 文音 |
この句意そのままに、誰かに心の甘さを読まれたといった句であるが、「黒葡萄」の暗紫色の暗さと重さには、心の翳りが表現されているようであり、内省している作者を彷彿とさせている。〈吉見恵子〉 | |
賽の目の出方で揺れる花の位置 | 佐々木彩乃 |
「賽の目の出方」と「揺れる花」で、コロナ禍が想像される。毎日の国内の感染者数に一喜一憂し、コロナ禍の日常を暮らしている。特に七月の連休中の感染者は、凄まじいものとなった。この句は、予想できない毎日の感染者数を賽の目の出方と表現し、その巷から吹いてくる風に影響される、か弱い花である自らを表現したものと思われる。〈吉見恵子〉 | |
月あびていけないことをするみどり | 澤野優美子 |
蜆蝶 有為よりいでて無為の旅 | 杉山 夕祈 |
はらわたのない彫像が朽ちてゆく | 新井 笑葉 |
羅針盤などとっくに捨てた鳥たちよ | みとせりつ子 |
靴下を脱いでくるぶし眠れない | 立花 末美 |
絞り出すみどり具象にしておくれ | 岩渕比呂子 |
横たわる樹の年輪となり 赦す | 中嶋ひろむ |
揺るぎない位置に切手が貼ってある | 山下 華子 |
タンポポの綿毛 崖っぷちの僻論 | 林 勝義 |
身仕舞いのひとつ小さな死を生きる | 野邊富優葉 |
胸中に折紙のような白船 | 望月 幸子 |
転居先不明 長い長い夢 | 宗村 政己 |
2020.10.10